目 次 :人間関係の知恵 | |
---|---|
項 目 | せつめい |
即我善親友 | そくがぜんしんぬ |
兵戈無用 | ひょうがむよう |
縁起の法 | えんぎのほう |
如是我聞 | にょぜがもん |
「是の如く我聞きたまいき」。私はこのように聞かせていただき、承知させていただきました。
釈尊が説かれた教えを、お経といいます。お経は、「如是我聞」「我聞如是」から始まります。釈尊の説法を心静かに聞こうとする弟子たちの姿がよく表されています。釈尊に信順し、その教えに従って生きようと決断した姿です。また、釈尊自身も「如是我聞」と釈尊を仏たらしめた法に信順し、法によって生きられたのです。
「聞く」ということは、非常に難しいことであります。私たちは、相手の言うことをじっくり聞くということをしているでしょうか?
しゃべることは得意としていますが、聞くということはなかなかできません。聞いていても、自分の思いが先にたって聞いており、相手の真意を聞こうとしない。いつも、自分の主張が正しいと思って聞いてはいないでしょうか?
近年、異業種交流とか産、官、学の協力とかが言われ、いろんな会議が持たれていますが、これらの会議でもお互いの意見ばかり主張して、相手の意見をよく理解しようとしない場合も見受けられます。どんなにいい考えを持っていても、相手によく理解してもらうことが必要です。そのためにも、相手の主張をじっくり聞くということが必要なのではないでしょうか?
釈尊の悟りの内容として、縁起の法があります。
釈尊によると「縁起とは、すべての物事は縁によって起こる。この宇宙は、因、縁、果によって万物は成り立っており、万物はすべて無駄なく相関関係で織り成す世界である。」と説いています。
即ち、どのような物も、どのような事も一切無駄というものはないのです。
つまり、森羅万象全てのものは関係しあっており、私たち人間社会においても、およそ必要でない人間はこの世の中には存在いたしません。
ところが現実の私たちの社会では自治体や企業等においても経営とか効率といった面から判断して、自分たちにとって都合の良い人材のみを必要とし、他は配転とか退職など行ってはいないでしょうか?
経営とか効率化と言った面だけでなく、この不況の時代において、お互いに痛みを分かち合いながら、人材を大きく伸ばすと言った配慮も必要ではないでしょうか?
現代社会では、「縁」ということほど、私たちの人生において不可思議な事はありません。又、会社で長い間勤務していた人とも、退職後付き合いを大切にすると言ったような気くばり、心くばりも大切にしたいものです。
たまたま出会った「人」を大切にしたいものです。
私たちの人生において、一期一会の精神が、人として真の豊かさを与えてくれるのではないでしょうか?
「兵戈用いること無し」
いつの時代も、経済と軍事と情報を把握したものが権力を持つといわれています。
この三つ言葉の後には戦争と続きます。
言わば、この三つを国家成立の最大の根拠とする限り、どこまで言っても真の平和はあり得ないでしょう。
力の均衡、すなわちこの三つの均衡が取れている時期は、平和がなりたちます。しかしあくまで見せかけなのです。
それが戦後五十年でしょう。しかし、現在その均衡も崩れかけてきています。同じ過ちを繰り返す危険が迫っていると考えるのは危惧でしょうか?
美作の国のお生まれであります法然聖人は九歳の時、父が殺されています。父が亡くなるとき、「仇を討つな」と遺言された。それを守って出家されたと伝えられています。仇討ちは、どこまでいっても殺し合い終止符を打つということがありません。
私たちの人間関係においても、お互いに「相手を許す」ということが必要なのではないでしょうか?
職場においても、社会生活においても、間違いや失敗はしようと思ってするわけではないと思います。しかしながら、許すことができない私たちなのです。こういうわたしたちの在り方を「兵戈」といわれているのです。
「聞法能不忘 見敬得大慶 即我善親友」 (仏説無量寿経)「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶べば、すなわち我が善き親友なり」 釈尊の教えでは「善き親友、善き仲間を持つということは、悟りの道のすべてであり、成就である」とも言われています。釈尊は、「人は生まれながらによるのでなく、その人間が何をなすかによって、賤しい人になったり、尊い人になったりするのである」と説いておられます。
我々は、常日頃その人の社会的地位や名誉などによって、その人の真価を決めてはいないでしょうか?・・・・・。職場にあって地位は仮のもの。肩書きや名誉はいつ外れるかも知れないものであり、肩書きや名誉が外れてしまえば、ただの人と言ったケースも多々見受けられます。
今日の社会では、企業であろうと自治体であろうと学校であろうと、お互いに信頼しあっていける人に 出会うと、全て自分のことが言えるような親友が必要であり、ともに歩んでゆける親友が必要でしょう。
親鸞は「『慙』は人に羞ず、『愧』は天に羞じず。これを、『慙愧』と名ずく。『無慙愧』は名づけて『人』とせず、名づけて『畜生』とす。慙愧あるがゆえに、即ちよく父母、師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母、兄弟、姉妹あることを説く」としています。(教行信証) すなわち、あらゆる関係において慙愧の心を持つのが人であると説いており、慙愧なきものは人でないと言っているのです。
社会も、企業も、自治体も、人間の在るところ全てこの関係によって成り立っていりのです。特に企業社会等で人の上に立つ者は、部下の長所を伸ばし、短所を補い生産活動を活性化するなどの配慮を行う必要もありましょう。よく「企業は人なり」と言われる所以は、ここにあるのではないでしょうか?。
すべての生きとし生きるものには、ことごとく仏性が備わっている。言いかえますとどのような悪逆非道の者であっても、こころの根っ子には、仏のこころを持っている。今現在は煩悩によって覆われているが、未来に仏になる可能性を持った者である。
仏のこころとは、「摂取不捨」のはたらき、すべてのものを摂めとって捨てることがない。
さて、煩悩に覆われている私たちはどうでしょうか?
私たちは毎日なにかのメジャーをもって善し悪しを判断して生活しておりますが、悪しきことを受け入れる寛容な心は少ないのではないだろうか、また「喉元すぎれば熱さ忘れる」式に切り捨てていないだろうか?
「親鸞は、弟子一人も持たずさふらふ」 仏法を求めるこころを起こす者は皆、お互いが良き友達であり、良き仲間で人間関係を損ねるものはなにもない、ただ仏の弟子というのみである。と説かれておられます。
私たち周囲の人間関係はどうなっているのでしょうか。
QCサークル会合が長続きしない一つに人間関係がうまくいっていないなどと聞くことがありますが? 確かに話し合いをするなかで建設的な意見、破壊的な意見も出ますね。自分はこのように理解し協力しているのに、あの人は解らない 非協力的である、など相手の都合など考えないで・・・・・・こんなところから断絶が始まるのでしょうかね?
会社内で本当の親友がなかなか出来ないともいわれていますがさびしいことですね、
しかし野球部、バレー部、華道部など同好会・クラブでは共通の事柄を通じて人間関係が成立しておりますし、それらを通じて強い絆が出来ています、
二事例は本質で違いがあるようですが、この違いに気づき行動することがチームワークを向上させることになるのではないでしょうか。
人は自分の弱いところは見せない見られたくないもの、本当の自分は夫婦の仲でも、それも10年20年と連れ添ったところで自然に暴露してしまう味なもの、このレベルは自分の良いところも悪いところも全て知り合い、お互いの気持ちを尊重して行動が出来る一心同体と言う関係になっているのだろうが、
企業内における人間関係は自然体ではなかなかうまく行かない、まして自分を見せようとしなければ相手も同じスタンスでしか見せてくれないと思われます、しかし私たちは自分の生活の30%を会社( 企業人として )で過し、多くの人とつながりを持ち厳しい毎日を生き抜いているのですから、相手の気持ちを理解する広い心をもち、チームワークに気を配り、良き人間関係を作り出すことが必要でしょう、特に経済状態の不安定な中で生き残りをかけて一人一人の力が結集出来ることは企業人としてこころすべきことと思います。
平松大分県知事の本「 東京で出来ないことをやってみよう 」(文芸春秋社版)によると、近年地域の活性化、企業の活性化が盛んに叫ばれています。又、賃金が抑制され、人減らしが行われ、ロボットの導入による効率化が進むと企業の人材活力は減退していくと言われています。活力を求めながら、一方で効率化をすすめていくためには、企業は文化をもたねばならないと言っています。多くの企業において取り入れられている「 QC活動 」は職場に活力を求めるために、お互いが話し合って職場の効率化をいかに高めるか、活力をいかにもたらすか
という運動でありますが、このQC活動においてもお互いを認め合い、相手を信頼し合ってこそ、本格的な活動が展開できるのです。
企業の活性化を図るには、お互いを認め合い、相手を信頼し、命の平等性を認めながら、活動の展開を積み重ね、職場で働いている人間個々の持っている能力を最大限に引き出し、こうした運動の積極的な推進を図り、企業全体のものにしていく必要があると言えます。お互いを認め合いながらこうした運動を推進することは、地域の活性化とか村おこし運動にもつながるものがあり、一つの企業文化運動であり精神運動であるとも言えるのではないでしょうか?
天台最澄の教えに「 忘己利他 」(もうこりた)が有る。 「 己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり 」 これは仏そのものを 指す言葉です。しかし、一時も煩悩の絶えることの無い我々は果たして成り立つのでしょうか。
煩悩は、自分と相手との比較より生じますが、「 人の振り見て我が振り直せ 」ということわざがあるように、時には自己を分析し、
振り返る事が大切です。自分の考え、また感情的な行動、欲求不満と関係がないか、人を憎んでいないか確かめてみる事です。
また、自分で認めたくない人格的な弱点が隠されていないか、人を憎んだり歪んだ考え方をしたがるのは、そこには無意識の動機があるのではないかなど、自分の欠点を分析しつづけるならば、これまでと違う個性をもった自分を発見できるかも知れません。
このように、考える習慣と自己分析の方法を結び付けようと決心してとき、今までの自分の物差しから、職場や地域や家庭に合った物差しが芽生えて、人と接する輪が広まり、自分自身の心の豊かさを創り出せるのではないでしょうか。
私たちは、利害関係のある中で頭を下げることは得意ではありますが、「頭が下がる」という事の経験は少ないものです。
私たちが行動を起こすには、考え方とか方針というものを持ちますが、これらは、その時々の人間の感情に迎合しないで、長い意味で相手に喜んでいただけるようなものでなければなりません。すぐ値引きをしたり、回収を甘くしたりすれば、その時は人間関係は良くなりますが、長い目でみると必ず相手の経営を悪化させますから、そういうものに陥らないためにも方針が必要となりますし、自分がきちっとした考え方を持つという事が大切になってくる訳です。
この領域をたもつためには、人間性というものに裏打ちされていないと、非常に冷酷な人間としかうつらないもので、人間性、人間味をもつという事は大変むつかしいし、自分が努力する以外にない訳です。ここに相手の人の心がわかるという事が大切になってくる訳です。
非常に優秀で、よく仕事ができ、熱心で積極的な人ほど、うっかりすると相手の人の心が分からないことが多いのです。 上に信頼され、仕事も積極的にでき、うまくいっている時こそ落とし穴があるのです。相手の心が読めず、自分一人で走る可能性が大きいのです。
また本当に人の心が分からない人は、全員の力を集めることはできません。情報も入らないものです。現場から素直な形で入ってくる情報こそ大切であり、その中で初めて客観的な経営の判断ができる訳です。それぞれの立場の人の心が分かり、その上に立って、物の考え方、基本を訴えていって人が、組織が動けば力強いものになります。
このような意味で、考え方と人間味というのは、表と裏との関係にもなります。
当ホームページへ の電子メール:再びのご訪問をお待ちいたしております。